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ダルマパーラの生涯・最後

 第4回目、最後の日本訪問の時ののダルマパーラの発言は、反英・反植民地支配を訴える政治的なアジテーションが多かった。
 そのため、ダルマパーラの日本滞在中は常に尾行され、その行動が監視されていた。
 その後、彼は満州と朝鮮を訪れて、その様子を「日本が二、三年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがインドで行ったならば優に五十年を要していただろう」と言って、絶賛した。
 スリランカを植民地統治するイギリスに比べれば、日本のそれはまったく対照的だった。なぜなら、日本は満州を独立国として扱い、また、朝鮮に対しては同化政策をしていたのであって、植民地支配しているのではなかったからだった。
 ダルマパーラは、来日中に、日本がアジア民族を指導していくことは、彼等のその優秀性から言って全く当然のことである、とまで言っている。
 ダルマパーラは、その後セイロン・インドに戻って仏蹟復興運動や民族意識の覚醒運動を続けていった。
 一九一四年には第一次世界大戦が勃発した。その翌年、スリランカの中部にある古都キャンディで仏教の行列をイスラム教徒が襲撃するという事件が起こり、シンハラ族の青年が殺された。
 それがきっかけになって、暴動は拡大し、スリランカ全島に飛び火していった。
 植民地当局は、この暴動をイギリス支配に対するものと見なして、戒厳令を敷き、シンハラ族仏教徒は徹底的に弾圧されたのだった。
 弾圧の矛先はダルマパーラの家族にも向き、ダルマパーラの弟は逮捕され終身刑を言い渡された。しかし、劣悪な監獄で弟は半年後に獄死してしまった。
 ダルマパーラ本人は、事件当時インドのカルカッタの大菩提会本部にいた。そこで、警察の取り調べを受け、そのまま五年間その地に抑留された。
この抑留の五年間で、ダルマパーラは完全に健康を害してしまったが、それでもスリランカへ戻り、また、アメリカやイギリスに向かって活動を続けた。
 一九三一年七月、ダルマパーラはようやく出家の儀式を行って、沙弥(しゃみ)という初心の仏教僧となった。そして、一九三三年一月に定められた戒を受け、比丘(びく)という正式な僧となったのだった。
 その僅か三カ月後の四月二十九日、ダルマパーラは肺炎のためインド・サールナートにて六十九年の生涯を終えた。

ようやく、ダルマパーラの生涯も今回で終わりです。お疲れ様でした。
ダルマパーラも情熱の人だったと思います。その思いは、今も引き継がれているようです。

私は歴史を学ぶ大切さを山口修源氏のお話から学びました。
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タグ : ダルマパーラ 山口修源

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