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ダルマパーラの生涯6

一九〇二年四月、ダルマパーラは三回目の来日をした。
 日本は、その二カ月前にイギリスと日英同盟を結んでいる。この同盟の意義について、ダルマパーラは、欧米人のアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救うことこそ日本の役目なのだ、と語っている。
 このように、ダルマパーラの視点は自国の仏教復興者のものから、苦境にある近代アジア全体を見据えた理論的指導者のものへと変わっていたのだった。 
 一方、日本の進歩は著しく目を見張るばかりだが、その中にあって仏教だけが停滞している、と日本の仏教界を厳しく批判をしている。
 ダルマパーラの滞在から二年後に、日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを打ち破った。この日露戦争の勝利に、スリランカの人々は熱狂したという。また、この勝利によって日本は西欧列強と肩を並べることとなる。
 ダルマパーラもこの勝利を手放しで喜び、日本によってアジアが救われた、と話している。

 さて、日本の驚異的な工業の進歩を目の当たりしてきたダルマパーラは、自民族の自立のためには技術教育が欠かせないと考え、日本留学を行う財団を設立した。
 資金は父親を説得して拠出してもらった。この財団は、日本へシンハラ族の青年達を送り、織物や手芸などの技術を学ばせるという目的のものだった。
 続いて織物学校を一九〇六年に設立し、やがて大きな教育機関へと育っていった。
 そして一九一三年に、ダルマパーラは四度目の、最後となる日本訪問を行った。

ダルマパーラは、アジアの現状に非常な危機感を抱き、その中で、唯一西欧列強に伍している日本に大きな期待を寄せていました。
日露戦争当時、日本は日本だけでなくアジアを背負っていたといえます。そのときの日本人全体がとても悲壮な思いだったそうです。この戦争に負ければ日本という国はなくなる、という気持ちだったようです。それは、大東亜戦争開戦のときとは比べ物にならなかったそうです。日露と大東亜の両戦争を経験した小野田寛郎さんのおじいさんが、大東亜戦争時の日本人の様子を見て、日本人がこんな様子ではこの戦争は負けてしまう、と思ったそうです。

第二次世界大戦を経験したスリランカ人の多くが、日露戦争のことを知っています。ところが、その戦争を戦った子孫の私たちは、この日露戦争のことをほとんど知りません。
まだまだ、歴史を勉強しなければ、と思います。歴史を知る重要さを私は山口修源氏のお話から知りました。
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タグ : ダルマパーラ 日露戦争 大東亜戦争 第二次世界大戦 山口修源 植民地 小野田寛郎

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