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ダルマパーラの生涯5

 最初の来日から二年後の一八九〇年末に、ダルマパーラはインドの仏蹟を巡る旅に出た。翌年の一月に御釈迦様が悟りを開かれたという仏教の根本聖地であるブッダガヤに詣でた。このとき、日本からスリランカに留学していた釈興然という僧も同行している。
 この興然が日本人で始めてスリランカに長期滞在をした人物といわれている。
 しかし、ブッダガヤでダルマパーラが見たのは、破壊されつくされ荒廃した状況で、しかも、ブッダガヤ大菩提寺はマハントというヒンドゥー教の領主によって所有されていた。
 ダルマパーラは、ブッダガヤを仏教徒の手に取り戻すことを決意、同年五月に「ブッダガヤ大菩提会」を設立した。
 日本でも、興然の呼びかけもあって仏蹟復興運動が盛り上がった。
 当初、マハントから土地を買い取るだけの問題だったが、様々な思惑が入り乱れるようになり、しかもイギリス植民地当局はアジアにおける日本の進出に関係するのではないかと警戒するようになって、復興運動は立ち行かなくなっていく。
 一八九三年、、コロンブスのアメリカ大陸発見四百周年に当たり、シカゴでコロンブス記念万国博覧会が開かれた。
 それにあわせて、アメリカの神学者や知識人を中心に、シカゴ万国宗教大会の開催が計画された。
 日本の仏教界やキリスト教会にも招待状が届き大人数による代表団を送っている。
 また、大会委員会の議長は、ダルマパーラを南方の仏教教会の代表として招待した。
 南方仏教代表としてたった一人で乗り込んできたダルマパーラは、その要望と淡々ととく仏教の教えとによって、大会で最も人気のある演説者の一人となり、多くの聴衆を惹きつけた。この結果から、ダルマパーラは西欧への仏教の布教への確信を抱き、さらに、いくつもの講演活動を行った後に、アメリカを離れ、日本に二度目の訪問をした。
 ダルマパーラは各地で仏教演説会を行い、日本の仏教関係者と盛んに教義についての対話をした。さらに、ブッダガヤの復興運動への参加を呼びかけた。
 ところが、大菩提寺買い取りのための資金集めは期待した程にははかどらなかった。
 これには、マハント側や植民地当局の話が次々と変わるなどのために、次第に日本の仏教関係者の間に不信感が広がっていったということがあったという。
 ダルマパーラは日本の滞在を六週間で切り上げた。
 ここ数年間にあった出来事、万国宗教大会への参加や、大菩提会の設立、そして仏蹟復興運動などで、ダルマパーラはインド圏仏教復興運動の体現者へ変貌していった。
 そんな中、ダルマパーラは「アナガーリカ・ダルマパーラ」と名乗るようになった。
 アナガーリカとは出家者を意味する言葉である。しかし、彼は正式な出家の儀式を受けず、黒々と髪を伸ばしたままに出家者と名乗ったのだった。
 仏教復興を通じてアジアの連帯や再生、そして、植民地支配からの解放を目指す彼の姿勢は徐々に先鋭化していき、その特異な姿と相まって、ダルマパーラは「ランカのライオン」と呼ばれる英雄となっていった。

ダルマパーラのナショナリズムの形が徐々に明確になっていきます。このことについてはまた次回ご紹介します。
ダルマパーラの生涯を調べていると、アジアの歴史は日本に直結していることを実感します。また、別の側面からわが国を見るような気がします。
歴史の勉強の大事さを、私は山口修源氏から学びました。
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タグ : ダルマパーラ 釈興然 山口修源

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