スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ダルマパーラの生涯4

 ダルマパーラが日本とのつながりを持ち始めたのは、彼が雑誌の中にある日本の紹介記事を読んだのがきっかけだった。それ以来、日本を訪れてみたいと強く思うようになったのだった。
 さて、これより以前にオルコット大佐は、キリスト教布教用のキリスト教教理問答集を見て、その仏教版を作ることを思いつき、『仏教問答』という本を出版していた。
 これが評判を呼び二十以上もの国で翻訳され、オルコットはこの本を日本にも送った。
 当時の日本仏教は、明治初頭の廃仏毀釈運動からようやく立ち直りつつある時期にあった。『仏教問答』の著者が白人仏教徒であり、さらにこの著者のスリランカにおける仏教復興のための活躍を伝え聞くと、日本の仏教関係者はオルコット大佐を日本に招く運動を始めたのだった。
 そして、オルコット大佐の来日に際して、ダルマパーラオルコット大佐に同行し、念願の日本訪問を果たしたのだった。
 二人が神戸港に到着したのは一八八九年二月。港で大歓迎を受けたという。
 ところが、ダルマパーラは初めて雪を上海で見て、その厳しい冬に体調を崩して、リウマチ熱に罹り、激しい体の痛みに苦しみ始めていた。
 それでも、大勢の聴衆の前で到着の挨拶をし、日本を奴隷状態のアジアにおける独立国のスターと称えスリランカの多数は民族のシンハラ族は日本を誇りに思っていると話した。
 折りしも、この年の二月十一日は大日本帝国憲法発布式であり、ダルマパーラは近代日本の胎動を目の当たりにしたのだった。
 しかし、その後ダルマパーラはすぐに入院となり、結局日本に滞在した三カ月間の多くを病院で過ごさなければならなかった。それでも、病床のダルマパーラの元へ、僧侶や学生、教師、哲学者など多くの人が面会にやってきた。
 そのため、退院の頃には、日本についての多くの知識を得、さらには、日本人を賞賛するようになっていた。
 日本を離れる直前に、ダルマパーラは演説を行い、オルコット大佐によってスリランカ人の精神的支柱である仏教は復興しつつあり、やがては植民地支配という束縛を解くことが出来るだろう、と語っている。
 一方、オルコット大佐はダルマパーラの離日後も日本の各地で演説を行い、仏教の連帯や、さらなる研究などを訴えた。
 聴衆はオルコット大佐を熱狂的に支持し、仏教を旧時代の遺物としか考えていなかった一般的な日本人も改めて仏教を見直し始めた。

 このように、はるかかなたのスリランカでグナーナンダ長老が大活躍をした宗教論争の結果が、アジアの反対側にある日本の仏教復興への大きな影響となったのでした。
 スリランカと日本は、当時の通信状況や交通状況から見れば、まったく関係のない動詞のように思いがちだが、実にそれぞれの動きが連動していたのでした。このあたりが歴史を学ぶ面白さかもしれません。
 その面白さを知ったのは、山口修源氏のお話を聞いて、自分で勉強を始めてからです。


スポンサーサイト

タグ : ダルマパーラ グナーナンダ オルコット パナドゥラ論戦 山口修源

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。