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アナガーリカ・ダルマパーラの生涯3

 このパナドゥラ論戦の本がアメリカで出版され、それを通じてオルコット大佐がグナーナンダ長老を知ることとなった。
 オルコット大佐はロシア人のブラバツキー夫人と神智学協会を設立していた。オルコット大佐はグナーナンダ長老宛に手紙を出し、互いに文通をするようになった。
 ダヴィッドも、、グナーナンダ長老を通じて神智学協会に興味を持つようになった。
 一八八〇年五月にオルコット大佐とブラバツキー夫人はスリランカにやって来ると、すぐさま仏教に改宗した。これは西欧人で初の出来事だった。コロンボでオルコット大佐の演説会が催されると、そこでダヴィッドは初めてオルコット大佐と出会い、一八八四年に神智学協会に正式に入会した。
 しかしその後、ダヴィッドはブラバツキー夫人に、上座部仏教を勉強するように諭され、仏教の繁栄のために尽くそうと決心した。
 一八八五年、ダヴィッドはオルコット大佐と仏教神智学教会を創立すると、その活動に専念していった。
 翌年、オルコットがスリランカ全島を巡って宣教を行った際には、ダヴィッドは通訳のために同行した。
 その時に、ダヴィッドが目の当たりにしたのは、スリランカのいたる所で、キリスト教が人々の生活に深く浸透していることと、一方で仏教の見る影もないほどの衰退ぶりだった。
 ダヴィッドは仏教の復興を願い、オルコット大佐の講演の言葉を人々の心に響かせようと熱弁をふるった。
 一八八八年には、スリランカにおける英文機関誌『The Buddhist』および、シンハラ語の機関誌『サンダレーザ』を発刊、また、コロンボの各地で仏教日曜学校を開いた。
 そして、ダヴィッドは自らの名前をダルマパーラ、つまり「法の保護者」と改名したのだった。


だいぶ間が空いてしまいましたが、ダルマパーラの生涯の続きを紹介していきます。次回、ようやく日本との接点が生じます。
このように、私がアジアの国々の歴史に興味を持ったきっかけは、山口修源氏のお話でした。アジアの歴史を知ることは、日本の歴史を知ることと私は気がつきました。はるか遠い、スリランカでの出来事が日本に影響してきます。
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タグ : ダルマパーラ グナーナンダ オルコット ブラバツキー夫人

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