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アナガーリカ・ダルマパーラの生涯の1

 アナガーリカ・ダルマパーラ(一八六四~一九三三年)は、イギリスによる植民地支配で苦しんでいた近代スリランカで、仏教復興運動を展開し建国の父と呼ばれている人物です。
 前回までご紹介していた、ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(一九〇六~一九九六年)は、ダルマパーラがその基礎を築いた、仏教に基づくスリランカ・ナショナリズムを引き継いだ人物と言えるでしょう。
 ダルマパーラもじゃや割る棚元大統領と同様に仏教を信奉し、それを自らの思想と行動の拠り所とし、そして、アジアで唯一欧米列強と肩を並べていた日本に憧れ、手本として、自国、そしてアジアの復興への道を切り開いていきました。
 ダルマパーラも日本とスリランカの近代における関係を語る際には決して欠かすことの出来ない人物です。

 ダルマパーラは生涯日本を礼賛し愛してくれた。それ故に、一八八九年に初来日して以来、四度も日本を訪れている。
 ダルマパーラが生まれた頃のスリランカの仏教は風前の灯火だった。
 近代、スリランカはポルトガルやオランダ、イギリスによって支配され、キリスト教と彼等の文化や言語を押しつけられ、長い歴史を誇っていた伝統の文化は駆逐されていった。
 スリランカの人々は、西欧人の支配下で高い地位につくためにはキリスト教に改宗せざるを得なかった。
 子供達はキリスト教の学校に通わされ、そこで聖書を押しつけられ、自らの伝統文化や言葉、宗教、さらには肌の色を恥ずかしいものと教え込まれていった。
 強制的にキリスト教徒であると宣言させられ、また、親たちは生まれた子供の登録のために教会に行くと、そこで聖書に因んだ名前を付けられるのだった。
 そのような状況の中でも、先祖伝来の伝統を守ることの出来た裕福な家庭が僅かながらあった。
 その一つが、スリランカ南部のマータラで家具工場を経営していたヘーワウィタラナ家だった。このシンハラ族の敬虔な一家は、仏教の教えを忠実に守り、子孫にそれを伝えてきた。
コロンボのペター地区に居を構えていた一家に、一八六四年九月十七日ドン・ダヴィッド・ヘーワウィタラナ、後のアナガーリカ・ダルマパーラが生まれた。三男二女の長男、病弱で脚に障害があったという。
  ダヴィッドは六歳で、カトリック学校に入学するが、その後、二年間シンハラ族の子供達が通う私立学校に通い、そこで全てのものを清潔に保つということを厳しく教えられ、生涯それを守ったという。また、その学校で自国の言語であるシンハラ語の十分な訓練を受けたのだった。
 その後は、英語によるキリスト教教育を施す学校にいくつか通った。成績優秀なダヴィッドは、教師から何故カトリックにならないのか、と聞かれることもあったが、すでに、父母からの強い仏教の影響を受けていた彼は、改宗を考えることはなかった。
 それだけではなく、十歳の頃には聖書の中の主だった書を既に暗記していたダヴィッドは痛烈な聖書批判を行うようになった。
 また、御釈迦様の生誕と正覚と入滅を記念するウェーサーカの日に、校長室を訪ね、校長にその記念日を説明して、礼拝と儀式のために家で過ごしたいと言って、あっけにとられる校長を後目に学校を出ていった、ということも繰り返した。


ダルマパーラの仏教復興運動は日本にも多大な影響を与えています。
このような人物がいたことを知ったのは、山口修源氏のお話からです。そして、氏から近代アジアの歴史を勉強することの大切さを教わりました。
つたないものですが、私の勉強の成果を少しでも皆さんにお伝えしたいと思います。
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タグ : ジャヤワルダナ 山口修源 ダルマパーラ

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