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ジャヤワルダナ元大統領の経歴の5:サンフランシスコ対日講和条約会議の2

講和条約会議の審議にはいると、ソ連の代表グロムイコは中国共産党の会議への出席を求めたり、修正案の提出を延々と主張するなどの工作を行い、これにポーランドとチェコスロバキアの代表が歩調を合わせた。
 一日も早い日本の主権回復を求めるジャヤワルダナはこれに対決していった。
 ジャヤワルダナはソ連の意図的な引き延ばしに対しては、議事進行の補正案を次々に提案して対抗し、その主張に対しては、理路整然とその矛盾を突いて否定していった。
 そして、三日目の九月六日午前十一時より十五分間続いたジャヤワルダナが行った歴史的な演説に、全世界の人々が耳を傾けたのだった。


講和条約会議の準備段階での各国の思惑などを見ると、ジャヤワルダナ元大統領の演説の前半部の意味がより分かってきます。後半部はよく掲載されているので、目に付きますが、前半部はあまり目にする機会がないので、長いのですが以下に記しておきます。


 副議長及び各位、私は、五十一の諸国の代表の集っているこの席上において、われわれが承認のために招請された平和条約草案について、セイロン政府の見解を述べる機会を與えられたことを大きな特権と存ずるものであります。私の声明は、この条約をわれわれが受諾する色々の理由からなっております。また私は、この条約に対して向けられてきた批判の幾つかに答えようと試みるつもりであります。私は、たしかに私の政府を代表してのみ発言しうるものではありますが、日本の将来に対するアジアの人々の全般的態度における彼等の感情をも述べうるものと主張するものであります。私が今われわれが考慮している条約の最終草案を作成するに至った出来事を取扱う必要はありません。アメリカ代表ダレス氏及びイギリス代表ケネス・ヤンガー氏は、一九四五年八月の日本の降伏から始めて、これらの出来事の完全にして且つ公正な記述をわれわれに與えてくれました。しかしながら、この条約の草案を作成するために採用されなければならない手続きに関して、四大国の間に重大な意見の衝突があったことにふれることができるでありましょう。ソヴィエト連邦は、四大国のみが、即ち米国、連合王国、中国及びソヴィエト連邦の外相会議のみがその責任に負うべきであり、さらにもし他の諸国が条約草案の作成のために認められるならば、拒否権を四大国に留保すべきであるということを主張したのであります。
 連合王国はその自治領にも協議すべきでありと主張し、アメリカ合衆国はこれに同意したのであります。この両国は対日戦争に参加したすべての国々に協議することを支持したのであります。
 これらの諸国の間においても、この条約の実際の条件について、あるものは新たな軍国主義的日本のぼっ興によって、また、あるものは日本の侵略のもたらした損害と恐怖を忘れることができないことによってひきおこされた種々の考慮から生れた意見の相違があったのであります。
 完全に独立した日本の構想が始めて提議され且つ考慮されましたのは一九五〇年一月に開催されましたコロンボ全英連邦外相会議であることを私は、敢てここに申上げるものであります。コロンボ会議は日本を孤立した事例としてではなく、世界の富と人口の大きな部分を含み且つ最近になって始めてその自由を回復した諸国ーその国民はかえりみられなかった、幾世紀もの結果として依然として苦しんでいたのでありますーこのような諸国から成っている南及び東南アジアとして知られている地域の一部として考慮したのであります。二つの理念がこの会議から現れました。その一つは独立日本のそれであり、その二つは南及び東南アジアの国民の経済的及び社会的発展の必要のそれであります。この後者を確保するためにコロンボ・プランとして知られているものが着手されたのであります。
 ケネス・ヤンガー氏はこの会議のあとで全英連邦高等弁務官運営委員会がどのようにして条約草案について作業したか、そしてそのあとでアメリカ代表ダレス氏と協議したかを説明されました。
 いまわれわれの前にある条約はこのような協議と交渉の結果であります。この条約は私の政府の持っていた見解のあるもの及び私の政府の持っていなかった見解のあるものを代表しているのであります。私は只今この条約が、日本との平和を喜んで討議する国々の間で到達することのできた合意の最大公約数を表しているものであると主張するものであります。
 アジアの諸国、セイロン、インド及びパキスタンの日本に対する態度を活気づけた主要な理念は日本は自由であるべきであるということであります。私は、この条約がこの理念を完全に具現していると主張します。日本の自由の問題とはなれた他の事項、すなわちその自由は本州、北海道、九州及び四国の主要島しょに限定されるべきであるか、またはその自由はその近隣の若干の小島しょにも及ぶべきであるかという事項があります。若しそうでないとしたならばわれわれはこれらの島しょをいかにすべきでありましょうか。一九四三年のカイロ宣言に従って台湾は中国に返還さるべきでしょうか。もしそうであるならばいずれの中国政府に対してでありましょうか。平和条約の会議に中国は招請さるべきでしょうか。若しそうであるならばいずれの政府でありましょうか。日本から賠償を取り立てるべきでありましょうか。もしそうであるならば、いかなる程度の額でありましょうか。日本はそれ自身の防備を組織するまでいかにして自衛すべきでありましょうか。
 日本の自由という主要な問題についてわれわれは、結局において合意することができ、この条約はその合意を具現しております。その他の事項については、鋭い意見の相違がありましたが、この条約は、多数の意見を具現しているものであります。私の政府はこれらの問題のいくつかが違った方法で解決されるならばそれを望んだでありましょう。然しながら、多数のものがわれわれに同意しないという事実は、自由で且つ独立の日本という中心的概念を含んでいるこの条約にわれわれが調印を差控えるべきであるという理由にはなりません。
 われわれは、前に述べました関連ある事項はもし日本が自由であるならば解決は不可能でないこと、及び日本が自由でなければ、解決が不可能であることを感じております。自由な日本は、敢て申上げるならば、国際連合機関を通じて世界の他の自由な諸国家とこれらの問題を討議し且つ早期の満足すべき決定に到達することができます。この条約に調印することによって、われわれは、日本をそうすること、日本が承認しようと決定した中国政府と友好条約を締結することができるような地位におくことができ、更に、申上げることを欣快に思うものでありますが、日本がインドと平和と友好の条約を締結することができるような地位におくことができるのであります。もしわれわれがこの条約に調印しないならば、これらの可能性のうちいずれの一つも起こり得ないのであります。(外務省訳)


 ジャヤワルダナは、一九八九年の昭和天皇崩御の際には国賓として葬儀に参列した。
 一九九六年十一月、ジャヤワルダナは九十一歳の生涯を閉じ、コロンボのケラニヤ寺院で国葬が執り行われた。
 この時、日本からは総理特使のみの参列となった。残念ながらこの日本政府の態度は日本の大恩人に対してあまりにも不誠実だった。
 ジャヤワルダナは終生日本を愛していた。その理由について聞かれた際に、日本は西欧に対してひとり際だった存在だった、そして、仏教国だから、と答えたという。
 彼の遺志に基づき、角膜が提供された。片眼はスリランカ人に、そしてもう片眼は日本人に。
 このケラニヤ寺院は、御釈迦様が当時のマニアキタ王の招きでスリランカを三度目に御訪問されて、説法をされた場所と言われている。


 以上が、ジャヤワルダナ元大統領の生涯をざっと見てきたものです。ここで取り上げたのは、日本に関係するところだけなので、大統領としての活躍などは取り上げていません。
 以上、山口修源氏のお話から知ったジャヤワルダナ元大統領の生涯について、調べたことを掲載しました。
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タグ : ジャヤワルダナ サンフランシスコ 対日講和条約 昭和天皇 山口修源

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