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ジャヤワルダナ元大統領の経歴の4:サンフランシスコ対日講和条約会議

 ジャヤワルダナの覚え書きなどによると、サンフランシスコにおける対日講和条約締結までの過程は次の通りだった。
 日本の占領政策に関する連合国の最高決定機関として極東委員会が設置され、米英ソ中の四大国を含む十一ヵ国がこれを構成していた。
 日本を占領していたアメリカは、日本経済維持のために年間五億ドルを費やしており、占領二年も経つと、連合国も分散しており、日本との講和はすぐにも解決しなければならない問題となっていた。
 アメリカはジョン・F・ダレスを特命大使として極東委員会諸国に派遣し、講和解決のための意見を交わし始めるが、これに対しソ連は、講和締結は米英ソ中の四カ国によるものでなければならないと主張していた。
 講和条約会議においてもソ連代表は議事進行を妨害し、条約署名を遅らせようと三十二名もの大代表団を送り込み、一カ月間も滞在する準備を整えていた。
 インドとビルマ、中国は欠席だった。インドは、日本に当然与えられるべき完全な自由がこの条約では与えられないからという理由、ビルマは賠償の取り決めに不服だったためだった。中国については、中華民国と中国共産党のどちらが代表かを決められなかったために招請されなかった。
 インドネシアとフィリピンは出席したものの、戦争の傷跡が深く条約署名すべきか決めかねていた。
 このように、講和条約会議は緊張と不安の中で開会されたのだった。


会議が始まっても、条約は参加国によって署名まで持っていけるのか、修正されるのか、など、予断を許さない状況でした。
その流れを決定づけたのが以前に紹介した、この会議でのジャヤワルダナ元大統領の演説だったと言えるでしょう。
それ故、その演説が日本の自主独立を決定づけたとも言えるのだと思います。
まさに、ジャヤワルダナ元大統領は日本の大恩人でした。
私が生まれる少し前にも、私が知らない日本にとってとても大切な出来事が起きているのでした。それを教えてくれたのが、山口修源氏の話でした。
もっともっと勉強しなければ行けないと思います。
では、次回は、ジャヤワルダナ元大統領の経歴の最後となります。
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タグ : ジャヤワルダナ サンフランシスコ 対日講和条約 山口修源

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