スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

大東亜戦争中のタイと日本9

タイ北部に建設された日本軍用道路について、『正論』2006年9月号に掲載の「発見!世界唯一の日本軍との友情記念館」(武田浩一氏著)に次のようにあります。
「道路建設は数カ所から同時に進められた。道路は4メートルの幅で作られていった。日本軍兵士をリーダーに、タイ人数十人のグループが一つの組となって建設にあたった。斜面のきつい作業困難な場所は日本軍の工兵部隊が建設にあたった。作業は困難を極めた。大工事だった。
 多くのタイ人が日本軍に協力した。食糧事情も良くない、崖や岩場での事故やケガ、マラリアや風土病などで多くのタイ人労働者が死んだ。特にパイからムアンの厳しい工事区間ではタイ人自ら「白骨街道」と呼んだ。道路は貫通した。第15師団はビルマに転進した。」

この後、インパール作戦が発動します。

アジアの歴史を知ることの大切さを山口修源氏のお話で知りました。
スポンサーサイト

タグ : タイ 旧日本軍博物館 クンユアム 山口修源

大東亜戦争中のタイと日本8

タイの中部からビルマへは、泰緬鉄道による交通手段が作られていきましたが、タイ北部では、ビルマへの道路建設が日本軍によって計画されました。
それは、タイ北部とビルマの間の標高1000メートル級の大きな山脈や渓谷を通過する大計画でした。
また、タイ国内においても、北部のメーホンソンとチェンマイをつなぐ自動車道路はありませんでした。
さらに、メーホンソンから国境近くのクンユアムまでは道らしいものはありませんでした。
日本軍は、チェンマイからクンユアムまでの軍用自動車道建設にあたって、現地の人々を雇ったのでした。
一日1バーツ、技能がある人やリーダーには割増しの賃金が支払われました。
労働時間は一日6~8時間、午前中に一度休憩があり、昼休みは1時間。この労働時間は、日本兵も同じでした。
到着するのに1~2日を要する現場では、移動日に対しても賃金が支払われました。
一日1バーツは生活費として十分で、タイ人労働者は一月に約20日働くと、一旦家に帰り、その後現場に戻っていました。
つまり、非常に妥当な賃金と労働時間だったのでした。

それ故に、タイ人は日本軍に対して悪い印象は持っていなかったといいます。

アジアの歴史を知る大切さを、山口修源氏のお話から知りました。

タグ : 大東亜戦争 クンユアム タイ 泰緬鉄道

大東亜戦争中のタイと日本7

泰緬鉄道の話の続きです。
実際に、この工事現場で働いていた人の話では、仕事に対する給料はきちんと払われていたそうです(破格の給料だったという話しもあります)。そして、多くの人が亡くなったのは、酷使されて死んだというよりも、病気で亡くなったのだ、ということだそうです。

このように、多大な犠牲を払って造られた鉄道ですが、戦後、連合軍によって一部を残して撤去されてしまったといいます。
これは、他のアジアの国々においてもそうですが、その国に於いて日本軍がもたらした道路や鉄道などのインフラといった恩恵を全て消し去った、連合国の政策ではないかと思われます。

この、鉄道に使われていた機関車の一つが、現在は靖国神社の遊就館に展示されています。

歴史を学ぶ重要さを山口修源氏のお話しから知りました。

タグ : 大東亜戦争 泰緬鉄道 靖国神社 山口修源

大東亜戦争中のタイと日本6

大東亜戦争中のタイというと、どうしても泰緬鉄道の話が出てきます。これは、インドへの向かう鉄道として、タイからビルマ(現ミャンマー)を結んだ鉄道です。
突貫工事を行ない、連合軍の捕虜やタイ人などが強制的に労働を強いられ、劣悪な環境の中で酷使され虐待されて出来た鉄道というのが一般的に受け入れられている話しになってしまっています。

映画『戦場に架ける橋』によってこの話が広められてしまったということだそうです。

ところで、話は逸れますが、この映画の撮影はスリランカで行なわれたそうです。日本人がスリランカ人に会うと、自慢げにその話をするように思います。日本人としては複雑な思いでその話を聞くことになるのでした。

この過酷な強制労働というのは、実際の所はそうではなかったという証言をしているタイ人もいます。

この鉄道の全長は約450キロメートル。クワイ川に架ける橋梁や山岳ジャングル地帯などでの厳しい条件下の工事は、戦前にイギリスが同じ計画を立てた際に、着手するまでに3年を要するとの結論で、取り止めになったそうです。
そこを、日本軍は測量から工事終了までたったの1年3カ月で終えたのでした。
それゆえ、確かに突貫工事で、大きな犠牲を払って完成したものでした。

犠牲者は、日本人労働者1万5千人中1千人、捕虜7万3千5百人中1万2千人、アジア人労働者10万人中3万人で、合計4万3千人でした。作業期間中に雨期が到来し、マラリア、アメーバ赤痢などが蔓延、栄養不足がそれに拍車をかけたのでした。

自国の歴史、アジアの歴史を学ぶことの重要さを山口修源氏のお話で知りました。

タグ : 大東亜戦争 泰緬鉄道 戦場に架ける橋 山口修源

大東亜戦争中のタイと日本5

大東亜戦争において、次第に日本の劣勢がはっきりして来ます。
昭和19年のサイパン島が陥落すると、タイは日タイ同盟締結の責任者としてピブン首相を追放します。その一方で、抗日運動である「自由タイ」を通じて、英米と外交交渉を行なっていきました。
そして、「日本と同盟 を結んだのは弱小国としてやむを得なかったのだ」、「本心は「自由タイ」運動の表明にあるように、親英米だったのだ」、と表明し、列強がタイを侵略するきっかけを与えませんでした。

タイのこのような行動は、国家の独立をかけた必死の外交政策でした。

しかし、それはアジアの同胞日本を見捨てたわけではありません。敗戦後、「侵略国」というレッテルを貼られ、多くの都市を破壊され、さらには、膨大な戦後賠償にあえぐ日本にタイは手をさしのべてくれたのです。

終戦後、焼け野原になった日本を訪れ、賠償交渉に訪れたタイの使節団は、日本の惨状を見て、借金を大幅に棒引きし、さらに日本の子供たちを慰めようと、昭和24年にメスのゾウを送ってくれたのです。それが、東京都三鷹市の井の頭動物園のゾウの花子のことで、去年2007年に還暦を迎えました。

現在もタイ国民の日本への好感度は89%で、大変な親日国のひとつです。

自由主義主観研究会HPより http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu_e_6.html

タグ : ピブン首相 自由タイ 花子 大東亜戦争 山口修源

大東亜戦争中のタイと日本4

さて、大東亜戦争において日本軍の戦況は悪化していきました。インドとビルマの国境においても、たびたびイギリス軍が国境を越えて攻撃を仕掛けてきました。タイは日本の敗戦を予期して、少しずつ、日本と距離を取るようになりました。
これは、終戦後にタイの立場を少しでも有利なものにしておこうと図ったものでした。これこそが、タイの外交であり、タイの独立を保ってきた秘訣でした。

昭和18年11月に、東京においてアジアの独立国などの首脳を招いて大東亜会議が開かれました。招かれたのは、満州国、中華民国南京政府、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、そしてタイでした。
しかし、ピブン・タイ首相は自らは出席せず、タイの王子ワンワイタヤコーン殿下が出席されました。これも、敗戦後を見据えてのことといわれています。
大東亜会議において、大東亜宣言が採択され、大東亜各国の共存共栄や伝統尊重、人種差別撤廃などが謳われました。
ところで、ワンワイタヤコーン殿下は戦後、国際連合の議長となった人物で、日本の国連加盟を働きかけ、国際舞台への復帰に尽力された方です。

歴史を学ぶ大切さを山口修源氏のお話しから学びました。

タグ : 大東亜戦争 タイ ワンワイタヤコーン殿下 山口修源

大東亜戦争中のタイと日本3

大東亜戦争中、タイはアジア独立のための一つの拠点となりました。首都バンコクにはビルマ(現ミャンマー)の独立を目指す「ビルマ独立軍」が編成され、また、インドの独立を目指す「自由インド独立連盟」も作られていました。
翌、昭和17(1942)年1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃した事をきっかけにして、1月25日、ピブーンソンクラーム首相はイギリスとアメリカに対して宣戦布告し、日本と共同戦線をはることとなりました。

一方で、タイの政府内で、首相と対立する一派は、アメリカ政府の支援を受けた 在米タイ人を中心とした抗日組織「自由タイ」と接触を保っていました。

タイは、アジアが次々と列強によって植民地支配されていった中、外交によって切り抜け、独立を保ってきた国でした。その外交上手が大東亜戦争中にも発揮され、二重外交を行なっていたのでした。それは、熾烈な世界情勢にあって、小さな国が生き延びるための一つの手段だったのでした。

歴史を知れば知るほど、日本が先の戦争について世界に謝罪しなければ行けないという考えが間違っているということに気づきます。

歴史を学ぶ大切さを私は山口修源氏のお話から知りました。

タグ : 大東亜戦争 クンユアム タイ ピブーンソンクラーム ビルマ独立軍 自由インド独立連盟 山口修源

大東亜戦争中のタイと日本2

昭和16年12月8日、日本は真珠湾攻撃を敢行し、対米英開戦に踏み切りました。同時にマレー侵攻作戦も開始されました。日本軍はビルマ進攻のために対に進駐しました。
当時のタイ内閣の首相ピブン・ソンクラーン首相は日本側と交渉し、日本軍の通過を認める協定を結ぶ予定でした。しかし、日本軍の勢いを見て、同年12月10日に攻守同盟を結ぶことにし、「日タイ同盟条約」を12月21日に締結しました。さらに、翌年1月3日に日タイ共同作戦に関する協定が成立します。タイは、中国国民政府の蒋介石総統に向けて、「同じアジア人として日本と和を結び、米英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきである」と電文を送っています。
(自由主義史観研究会のHPhttp://www.jiyuu-shikan.org/と『正論』2006年九月号武田浩一氏の記事「発見!世界唯一の日本軍との友情記念館」より)

タグ : クンユアム 旧日本軍博物館 大東亜戦争 ピブン・ソンクラーン タイ 山口修源

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。