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タイ・クンユアムの親日博物館3

クンユアム旧日本軍博物館の館長、チョムタワットさんは旧日本軍についての聞き取り調査をするのと一緒に、地元の人々が所有していた旧日本軍の遺品を自らのお金で買い集める作業を行ないました。その数は500点にものぼります。
クンユアムでは文化センターを作ろうとその建物を建設していましたが、チョムタワットさんは、クンユアムの郡長にその計画を変更して戦争博物館を作ることを提案し、1996年に「クンユアム第二次世界大戦博物館」が開かれました。
当時、タイのカンチャナブリには既に戦争博物館が作られていましたが、そこでは残虐な日本軍というものを見せていました。
クンユアムの博物館が開かれた時に、メーホンソン県知事は、日本軍も苦痛を味わったとして、この博物館はカンチャナブリの博物館と一線を画していることを明言しています。

このように、バランスのとれた視点を持つ人物がこの地にいたのでした。それは、プロパガンダに惑わされることなく、事実を見ることの出来た人物なのでしょう。

歴史を学ぶ大切さを、私は山口修源氏のお話しから学びました。
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タグ : クンユアム チョムタワット 旧日本軍博物館 大東亜戦争 山口修源

タイ・クンユアムの親日博物館

クンユアム旧日本軍博物館の館長、チューチャイ・チョムタワットさんは、クンユアム郡警察署長としてこの地に来た時、地元の住民達が、旧日本軍兵士が持っていた、水筒や毛布、鉄帽、飯盒などを大切に持っていたのを見て、驚いたそうです。
これらのものは、日本軍兵士が、食べ物などと交換にしたものや、お世話になったお礼に置いていったものなのだそうです。
この地にいた日本軍と地元住民は良好な関係を持っていたというのです。
ここでも、日本軍はアジアで嫌われていた、という話が真実ではないことが示されています。
チョムタワットさんは、歴史の真実を残そうと、戦争当時を知る住民達から、日本軍に関係する彼等の見聞きした話を聞き、記録 していきました。
そこで、現れてきたのは、「残虐な日本軍」ではなく、「規律正しく優しい日本軍」という姿でした。
チョムタワットさんは、広範囲な地域に残されている日本軍との交流の話を丹念に記録していき、一冊の本にまとめています。

この続きはまた次回。

このブログは、山口修源氏のお話がきっかけで、立ち上げたもので、アジアと大東亜戦争の歴史を勉強しています。

タグ : クンユアム チョムタワット 旧日本軍博物館 大東亜戦争 山口修源

タイの親日博物館

スリランカについての話題は前回でひとまず離れ、これからしばらく、タイについての話をしていきたいと思います。

タイは、日本と同様に、ついに西欧の植民地支配から逃れて現代に至ったという歴史を持つ国です。それ故に、面白いことに、両国とも英語が余り通じません。日本は武力を含めた国力を増加させることによって、タイは外交によって外国と渡り合い、欧米の支配から逃れてきたと言われます。

さて、タイ北西部、メーホンソン県クンユアムはミャンマーと国境を接するところですが、ここに、「クンユアム旧日本軍博物館」という博物館があります。館長はチューチャイ・チョムタワットさん。元、クンユアム郡警察署長でした。
ここには、大東亜戦争でのビルマ戦線で戦った日本軍の将兵達の遺品が飾られています。そして、世界で唯一の親日博物館と言われています。

しかし、親日博物館は私が知る限りでは、もう一つあります。それは、フィリピンの神風特別攻撃隊発祥の地に近い場所にある、私設の「カミカゼ博物館」です。ここは、ダニエル・ディソンさんという方が運営しています。
そして、面白いことに、チョムタワットさんとディソンさんはどことなく、その雰囲気が似ているのです。

次回から、このクンユアムにある博物館についてお話しします。

私が、大東亜戦争の真実を勉強するようになったのは、山口修源氏のお話を聞いてからです。

タグ : タイ クンユアム 旧日本軍博物館 チョムタワット フィリピン ディソン カミカゼ 山口修源

スリランカ人の親日感情

スリランカに行くと、日本人はとても親しげな目で見られる。もちろん商売目当ての人を除いてのことです。
日本人と言うと、スリランカ人がまず思い浮かべるのが同じ仏教国、ということになるようです。
多くのスリランカ人は仏教を熱心に信仰しています。それは、日本人の多くが仏教というのと少し趣が違い、仏教を積極的に信仰している様子が窺えます。
一方、日本人はよく言われるように、葬式の時、お盆に墓参りに行く時に自分が仏教徒だと思い出す程度でしょう。
そのために、スリランカ人に、日本人のあなたと同じ仏教徒ですよ、と言われると戸惑うのではないかという気がします。
それと、戦争当時のことを知っている人と話すと、出てくる話は原爆のことです。アメリカは日本に対してとてもひどいことをした、という意識があります。それに対しての同情から、親日感情が出てきた、という人もいます。
そして、もう一つ出てくるのは、サンフランシスコにおける、対日講和会議での故ジャヤワルダナ元大統領の日本擁護の演説のことです。戦争の話をすると、この二つは大抵出てくるようです。

ジャヤワルダナ元大統領のこの演説のことは、日本人は知らないではすまされない話です。
しかし、実際のところ多くの日本人は知らないのが現実です。かく言う私も、山口修源氏のお話で、このことを初めて知ったのでした。

タグ : ジャヤワルダナ 対日講和条約 山口修源

ダルマパーラの生涯・最後

 第4回目、最後の日本訪問の時ののダルマパーラの発言は、反英・反植民地支配を訴える政治的なアジテーションが多かった。
 そのため、ダルマパーラの日本滞在中は常に尾行され、その行動が監視されていた。
 その後、彼は満州と朝鮮を訪れて、その様子を「日本が二、三年の内にこの地で完成させたことを、イギリスがインドで行ったならば優に五十年を要していただろう」と言って、絶賛した。
 スリランカを植民地統治するイギリスに比べれば、日本のそれはまったく対照的だった。なぜなら、日本は満州を独立国として扱い、また、朝鮮に対しては同化政策をしていたのであって、植民地支配しているのではなかったからだった。
 ダルマパーラは、来日中に、日本がアジア民族を指導していくことは、彼等のその優秀性から言って全く当然のことである、とまで言っている。
 ダルマパーラは、その後セイロン・インドに戻って仏蹟復興運動や民族意識の覚醒運動を続けていった。
 一九一四年には第一次世界大戦が勃発した。その翌年、スリランカの中部にある古都キャンディで仏教の行列をイスラム教徒が襲撃するという事件が起こり、シンハラ族の青年が殺された。
 それがきっかけになって、暴動は拡大し、スリランカ全島に飛び火していった。
 植民地当局は、この暴動をイギリス支配に対するものと見なして、戒厳令を敷き、シンハラ族仏教徒は徹底的に弾圧されたのだった。
 弾圧の矛先はダルマパーラの家族にも向き、ダルマパーラの弟は逮捕され終身刑を言い渡された。しかし、劣悪な監獄で弟は半年後に獄死してしまった。
 ダルマパーラ本人は、事件当時インドのカルカッタの大菩提会本部にいた。そこで、警察の取り調べを受け、そのまま五年間その地に抑留された。
この抑留の五年間で、ダルマパーラは完全に健康を害してしまったが、それでもスリランカへ戻り、また、アメリカやイギリスに向かって活動を続けた。
 一九三一年七月、ダルマパーラはようやく出家の儀式を行って、沙弥(しゃみ)という初心の仏教僧となった。そして、一九三三年一月に定められた戒を受け、比丘(びく)という正式な僧となったのだった。
 その僅か三カ月後の四月二十九日、ダルマパーラは肺炎のためインド・サールナートにて六十九年の生涯を終えた。

ようやく、ダルマパーラの生涯も今回で終わりです。お疲れ様でした。
ダルマパーラも情熱の人だったと思います。その思いは、今も引き継がれているようです。

私は歴史を学ぶ大切さを山口修源氏のお話から学びました。

タグ : ダルマパーラ 山口修源

ダルマパーラの生涯6

一九〇二年四月、ダルマパーラは三回目の来日をした。
 日本は、その二カ月前にイギリスと日英同盟を結んでいる。この同盟の意義について、ダルマパーラは、欧米人のアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救うことこそ日本の役目なのだ、と語っている。
 このように、ダルマパーラの視点は自国の仏教復興者のものから、苦境にある近代アジア全体を見据えた理論的指導者のものへと変わっていたのだった。 
 一方、日本の進歩は著しく目を見張るばかりだが、その中にあって仏教だけが停滞している、と日本の仏教界を厳しく批判をしている。
 ダルマパーラの滞在から二年後に、日本は大国ロシアに対して戦いを挑み、これを打ち破った。この日露戦争の勝利に、スリランカの人々は熱狂したという。また、この勝利によって日本は西欧列強と肩を並べることとなる。
 ダルマパーラもこの勝利を手放しで喜び、日本によってアジアが救われた、と話している。

 さて、日本の驚異的な工業の進歩を目の当たりしてきたダルマパーラは、自民族の自立のためには技術教育が欠かせないと考え、日本留学を行う財団を設立した。
 資金は父親を説得して拠出してもらった。この財団は、日本へシンハラ族の青年達を送り、織物や手芸などの技術を学ばせるという目的のものだった。
 続いて織物学校を一九〇六年に設立し、やがて大きな教育機関へと育っていった。
 そして一九一三年に、ダルマパーラは四度目の、最後となる日本訪問を行った。

ダルマパーラは、アジアの現状に非常な危機感を抱き、その中で、唯一西欧列強に伍している日本に大きな期待を寄せていました。
日露戦争当時、日本は日本だけでなくアジアを背負っていたといえます。そのときの日本人全体がとても悲壮な思いだったそうです。この戦争に負ければ日本という国はなくなる、という気持ちだったようです。それは、大東亜戦争開戦のときとは比べ物にならなかったそうです。日露と大東亜の両戦争を経験した小野田寛郎さんのおじいさんが、大東亜戦争時の日本人の様子を見て、日本人がこんな様子ではこの戦争は負けてしまう、と思ったそうです。

第二次世界大戦を経験したスリランカ人の多くが、日露戦争のことを知っています。ところが、その戦争を戦った子孫の私たちは、この日露戦争のことをほとんど知りません。
まだまだ、歴史を勉強しなければ、と思います。歴史を知る重要さを私は山口修源氏のお話から知りました。

タグ : ダルマパーラ 日露戦争 大東亜戦争 第二次世界大戦 山口修源 植民地 小野田寛郎

ダルマパーラの生涯5

 最初の来日から二年後の一八九〇年末に、ダルマパーラはインドの仏蹟を巡る旅に出た。翌年の一月に御釈迦様が悟りを開かれたという仏教の根本聖地であるブッダガヤに詣でた。このとき、日本からスリランカに留学していた釈興然という僧も同行している。
 この興然が日本人で始めてスリランカに長期滞在をした人物といわれている。
 しかし、ブッダガヤでダルマパーラが見たのは、破壊されつくされ荒廃した状況で、しかも、ブッダガヤ大菩提寺はマハントというヒンドゥー教の領主によって所有されていた。
 ダルマパーラは、ブッダガヤを仏教徒の手に取り戻すことを決意、同年五月に「ブッダガヤ大菩提会」を設立した。
 日本でも、興然の呼びかけもあって仏蹟復興運動が盛り上がった。
 当初、マハントから土地を買い取るだけの問題だったが、様々な思惑が入り乱れるようになり、しかもイギリス植民地当局はアジアにおける日本の進出に関係するのではないかと警戒するようになって、復興運動は立ち行かなくなっていく。
 一八九三年、、コロンブスのアメリカ大陸発見四百周年に当たり、シカゴでコロンブス記念万国博覧会が開かれた。
 それにあわせて、アメリカの神学者や知識人を中心に、シカゴ万国宗教大会の開催が計画された。
 日本の仏教界やキリスト教会にも招待状が届き大人数による代表団を送っている。
 また、大会委員会の議長は、ダルマパーラを南方の仏教教会の代表として招待した。
 南方仏教代表としてたった一人で乗り込んできたダルマパーラは、その要望と淡々ととく仏教の教えとによって、大会で最も人気のある演説者の一人となり、多くの聴衆を惹きつけた。この結果から、ダルマパーラは西欧への仏教の布教への確信を抱き、さらに、いくつもの講演活動を行った後に、アメリカを離れ、日本に二度目の訪問をした。
 ダルマパーラは各地で仏教演説会を行い、日本の仏教関係者と盛んに教義についての対話をした。さらに、ブッダガヤの復興運動への参加を呼びかけた。
 ところが、大菩提寺買い取りのための資金集めは期待した程にははかどらなかった。
 これには、マハント側や植民地当局の話が次々と変わるなどのために、次第に日本の仏教関係者の間に不信感が広がっていったということがあったという。
 ダルマパーラは日本の滞在を六週間で切り上げた。
 ここ数年間にあった出来事、万国宗教大会への参加や、大菩提会の設立、そして仏蹟復興運動などで、ダルマパーラはインド圏仏教復興運動の体現者へ変貌していった。
 そんな中、ダルマパーラは「アナガーリカ・ダルマパーラ」と名乗るようになった。
 アナガーリカとは出家者を意味する言葉である。しかし、彼は正式な出家の儀式を受けず、黒々と髪を伸ばしたままに出家者と名乗ったのだった。
 仏教復興を通じてアジアの連帯や再生、そして、植民地支配からの解放を目指す彼の姿勢は徐々に先鋭化していき、その特異な姿と相まって、ダルマパーラは「ランカのライオン」と呼ばれる英雄となっていった。

ダルマパーラのナショナリズムの形が徐々に明確になっていきます。このことについてはまた次回ご紹介します。
ダルマパーラの生涯を調べていると、アジアの歴史は日本に直結していることを実感します。また、別の側面からわが国を見るような気がします。
歴史の勉強の大事さを、私は山口修源氏から学びました。

タグ : ダルマパーラ 釈興然 山口修源

ダルマパーラの生涯4

 ダルマパーラが日本とのつながりを持ち始めたのは、彼が雑誌の中にある日本の紹介記事を読んだのがきっかけだった。それ以来、日本を訪れてみたいと強く思うようになったのだった。
 さて、これより以前にオルコット大佐は、キリスト教布教用のキリスト教教理問答集を見て、その仏教版を作ることを思いつき、『仏教問答』という本を出版していた。
 これが評判を呼び二十以上もの国で翻訳され、オルコットはこの本を日本にも送った。
 当時の日本仏教は、明治初頭の廃仏毀釈運動からようやく立ち直りつつある時期にあった。『仏教問答』の著者が白人仏教徒であり、さらにこの著者のスリランカにおける仏教復興のための活躍を伝え聞くと、日本の仏教関係者はオルコット大佐を日本に招く運動を始めたのだった。
 そして、オルコット大佐の来日に際して、ダルマパーラオルコット大佐に同行し、念願の日本訪問を果たしたのだった。
 二人が神戸港に到着したのは一八八九年二月。港で大歓迎を受けたという。
 ところが、ダルマパーラは初めて雪を上海で見て、その厳しい冬に体調を崩して、リウマチ熱に罹り、激しい体の痛みに苦しみ始めていた。
 それでも、大勢の聴衆の前で到着の挨拶をし、日本を奴隷状態のアジアにおける独立国のスターと称えスリランカの多数は民族のシンハラ族は日本を誇りに思っていると話した。
 折りしも、この年の二月十一日は大日本帝国憲法発布式であり、ダルマパーラは近代日本の胎動を目の当たりにしたのだった。
 しかし、その後ダルマパーラはすぐに入院となり、結局日本に滞在した三カ月間の多くを病院で過ごさなければならなかった。それでも、病床のダルマパーラの元へ、僧侶や学生、教師、哲学者など多くの人が面会にやってきた。
 そのため、退院の頃には、日本についての多くの知識を得、さらには、日本人を賞賛するようになっていた。
 日本を離れる直前に、ダルマパーラは演説を行い、オルコット大佐によってスリランカ人の精神的支柱である仏教は復興しつつあり、やがては植民地支配という束縛を解くことが出来るだろう、と語っている。
 一方、オルコット大佐はダルマパーラの離日後も日本の各地で演説を行い、仏教の連帯や、さらなる研究などを訴えた。
 聴衆はオルコット大佐を熱狂的に支持し、仏教を旧時代の遺物としか考えていなかった一般的な日本人も改めて仏教を見直し始めた。

 このように、はるかかなたのスリランカでグナーナンダ長老が大活躍をした宗教論争の結果が、アジアの反対側にある日本の仏教復興への大きな影響となったのでした。
 スリランカと日本は、当時の通信状況や交通状況から見れば、まったく関係のない動詞のように思いがちだが、実にそれぞれの動きが連動していたのでした。このあたりが歴史を学ぶ面白さかもしれません。
 その面白さを知ったのは、山口修源氏のお話を聞いて、自分で勉強を始めてからです。


タグ : ダルマパーラ グナーナンダ オルコット パナドゥラ論戦 山口修源

アナガーリカ・ダルマパーラの生涯3

 このパナドゥラ論戦の本がアメリカで出版され、それを通じてオルコット大佐がグナーナンダ長老を知ることとなった。
 オルコット大佐はロシア人のブラバツキー夫人と神智学協会を設立していた。オルコット大佐はグナーナンダ長老宛に手紙を出し、互いに文通をするようになった。
 ダヴィッドも、、グナーナンダ長老を通じて神智学協会に興味を持つようになった。
 一八八〇年五月にオルコット大佐とブラバツキー夫人はスリランカにやって来ると、すぐさま仏教に改宗した。これは西欧人で初の出来事だった。コロンボでオルコット大佐の演説会が催されると、そこでダヴィッドは初めてオルコット大佐と出会い、一八八四年に神智学協会に正式に入会した。
 しかしその後、ダヴィッドはブラバツキー夫人に、上座部仏教を勉強するように諭され、仏教の繁栄のために尽くそうと決心した。
 一八八五年、ダヴィッドはオルコット大佐と仏教神智学教会を創立すると、その活動に専念していった。
 翌年、オルコットがスリランカ全島を巡って宣教を行った際には、ダヴィッドは通訳のために同行した。
 その時に、ダヴィッドが目の当たりにしたのは、スリランカのいたる所で、キリスト教が人々の生活に深く浸透していることと、一方で仏教の見る影もないほどの衰退ぶりだった。
 ダヴィッドは仏教の復興を願い、オルコット大佐の講演の言葉を人々の心に響かせようと熱弁をふるった。
 一八八八年には、スリランカにおける英文機関誌『The Buddhist』および、シンハラ語の機関誌『サンダレーザ』を発刊、また、コロンボの各地で仏教日曜学校を開いた。
 そして、ダヴィッドは自らの名前をダルマパーラ、つまり「法の保護者」と改名したのだった。


だいぶ間が空いてしまいましたが、ダルマパーラの生涯の続きを紹介していきます。次回、ようやく日本との接点が生じます。
このように、私がアジアの国々の歴史に興味を持ったきっかけは、山口修源氏のお話でした。アジアの歴史を知ることは、日本の歴史を知ることと私は気がつきました。はるか遠い、スリランカでの出来事が日本に影響してきます。

タグ : ダルマパーラ グナーナンダ オルコット ブラバツキー夫人

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