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アナガーリカ・ダルマパーラの生涯2

後のダルマパーラ、ダヴィッド少年の通う学校の通学路には、コタヘーナという名の寺院があった。
 ここの住職は、一八七三年に行われた「パナドゥラ論戦」で有名なモーホッティワッテ・グナーナンダ長老だった。
 パナドゥラ論戦とは、スリランカにおけるキリスト教と仏教との宗教論戦で、特設の会場を設置し一万もの観衆の見守る中で行われたもの。
 驚いたことに、スリランカではこういう宗教論戦がそれ以前にも4回も行なわれており、これが5回目のものだった。そして、この5回目のものがもっとも有名なものだった。
 何しろ、会場はその論戦のために特別に作られたもので、キリスト教側の観客5千人に、仏教側の観客が5千人来たという。
 そして、キリスト教側の論者が二人だったのに対し、仏教側はグナーナンダ長老一人だけだった。
 当時のスリランカの仏教は風前の灯、ポルトガル、オランダ、イギリスという歴代の植民地支配によって強制的にキリスト教に改宗させられていった。
 この論戦も、仏教の最後の息を止めるためのものだった。
 ところが、この不利な状況にもかかわらず、結果は、仏教側の論者、グナーナンダ長老の圧勝だった。
 グナーナンダ長老の弁論が終わり、仏教側の勝利が誰の目にも明らかになったとき、観客は「サードゥ(善哉)、サードゥ(善哉)」という賞賛の声が大反響したという。
 しかも、会場には混乱はなく、みな整然としていたというから、スリランカ人の規律というものもすばらしいといえる。
 そして、この論戦がはるか遠い、明治時代の日本、廃仏毀釈で沈滞していた仏教の復興に大きな影響を与えたというから興味深い。
 少年だったダヴィッドもこの論戦が行われた会場にいたという。そして、その偉大な論者がいるコタヘーナ寺によく通い、グナーナンダ長老に気に入られていた。
 このパナドゥラ論戦については、アメリカで出版され、それを通じて、オルコット大佐という人物がグナーナンダ長老を知ることとなった。

続きは次回。この一連の動きがやがては日本にまで波及してくるのが歴史の面白さかもしれません。
歴史を学ぶ大切さを、私は山口修源氏から学びました。
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タグ : ダルマパーラ グナーナンダ オルコット 山口修源 パナドゥラ論戦

アナガーリカ・ダルマパーラの生涯の1

 アナガーリカ・ダルマパーラ(一八六四~一九三三年)は、イギリスによる植民地支配で苦しんでいた近代スリランカで、仏教復興運動を展開し建国の父と呼ばれている人物です。
 前回までご紹介していた、ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(一九〇六~一九九六年)は、ダルマパーラがその基礎を築いた、仏教に基づくスリランカ・ナショナリズムを引き継いだ人物と言えるでしょう。
 ダルマパーラもじゃや割る棚元大統領と同様に仏教を信奉し、それを自らの思想と行動の拠り所とし、そして、アジアで唯一欧米列強と肩を並べていた日本に憧れ、手本として、自国、そしてアジアの復興への道を切り開いていきました。
 ダルマパーラも日本とスリランカの近代における関係を語る際には決して欠かすことの出来ない人物です。

 ダルマパーラは生涯日本を礼賛し愛してくれた。それ故に、一八八九年に初来日して以来、四度も日本を訪れている。
 ダルマパーラが生まれた頃のスリランカの仏教は風前の灯火だった。
 近代、スリランカはポルトガルやオランダ、イギリスによって支配され、キリスト教と彼等の文化や言語を押しつけられ、長い歴史を誇っていた伝統の文化は駆逐されていった。
 スリランカの人々は、西欧人の支配下で高い地位につくためにはキリスト教に改宗せざるを得なかった。
 子供達はキリスト教の学校に通わされ、そこで聖書を押しつけられ、自らの伝統文化や言葉、宗教、さらには肌の色を恥ずかしいものと教え込まれていった。
 強制的にキリスト教徒であると宣言させられ、また、親たちは生まれた子供の登録のために教会に行くと、そこで聖書に因んだ名前を付けられるのだった。
 そのような状況の中でも、先祖伝来の伝統を守ることの出来た裕福な家庭が僅かながらあった。
 その一つが、スリランカ南部のマータラで家具工場を経営していたヘーワウィタラナ家だった。このシンハラ族の敬虔な一家は、仏教の教えを忠実に守り、子孫にそれを伝えてきた。
コロンボのペター地区に居を構えていた一家に、一八六四年九月十七日ドン・ダヴィッド・ヘーワウィタラナ、後のアナガーリカ・ダルマパーラが生まれた。三男二女の長男、病弱で脚に障害があったという。
  ダヴィッドは六歳で、カトリック学校に入学するが、その後、二年間シンハラ族の子供達が通う私立学校に通い、そこで全てのものを清潔に保つということを厳しく教えられ、生涯それを守ったという。また、その学校で自国の言語であるシンハラ語の十分な訓練を受けたのだった。
 その後は、英語によるキリスト教教育を施す学校にいくつか通った。成績優秀なダヴィッドは、教師から何故カトリックにならないのか、と聞かれることもあったが、すでに、父母からの強い仏教の影響を受けていた彼は、改宗を考えることはなかった。
 それだけではなく、十歳の頃には聖書の中の主だった書を既に暗記していたダヴィッドは痛烈な聖書批判を行うようになった。
 また、御釈迦様の生誕と正覚と入滅を記念するウェーサーカの日に、校長室を訪ね、校長にその記念日を説明して、礼拝と儀式のために家で過ごしたいと言って、あっけにとられる校長を後目に学校を出ていった、ということも繰り返した。


ダルマパーラの仏教復興運動は日本にも多大な影響を与えています。
このような人物がいたことを知ったのは、山口修源氏のお話からです。そして、氏から近代アジアの歴史を勉強することの大切さを教わりました。
つたないものですが、私の勉強の成果を少しでも皆さんにお伝えしたいと思います。

タグ : ジャヤワルダナ 山口修源 ダルマパーラ

ジャヤワルダナ元大統領の経歴の5:サンフランシスコ対日講和条約会議の2

講和条約会議の審議にはいると、ソ連の代表グロムイコは中国共産党の会議への出席を求めたり、修正案の提出を延々と主張するなどの工作を行い、これにポーランドとチェコスロバキアの代表が歩調を合わせた。
 一日も早い日本の主権回復を求めるジャヤワルダナはこれに対決していった。
 ジャヤワルダナはソ連の意図的な引き延ばしに対しては、議事進行の補正案を次々に提案して対抗し、その主張に対しては、理路整然とその矛盾を突いて否定していった。
 そして、三日目の九月六日午前十一時より十五分間続いたジャヤワルダナが行った歴史的な演説に、全世界の人々が耳を傾けたのだった。


講和条約会議の準備段階での各国の思惑などを見ると、ジャヤワルダナ元大統領の演説の前半部の意味がより分かってきます。後半部はよく掲載されているので、目に付きますが、前半部はあまり目にする機会がないので、長いのですが以下に記しておきます。


 副議長及び各位、私は、五十一の諸国の代表の集っているこの席上において、われわれが承認のために招請された平和条約草案について、セイロン政府の見解を述べる機会を與えられたことを大きな特権と存ずるものであります。私の声明は、この条約をわれわれが受諾する色々の理由からなっております。また私は、この条約に対して向けられてきた批判の幾つかに答えようと試みるつもりであります。私は、たしかに私の政府を代表してのみ発言しうるものではありますが、日本の将来に対するアジアの人々の全般的態度における彼等の感情をも述べうるものと主張するものであります。私が今われわれが考慮している条約の最終草案を作成するに至った出来事を取扱う必要はありません。アメリカ代表ダレス氏及びイギリス代表ケネス・ヤンガー氏は、一九四五年八月の日本の降伏から始めて、これらの出来事の完全にして且つ公正な記述をわれわれに與えてくれました。しかしながら、この条約の草案を作成するために採用されなければならない手続きに関して、四大国の間に重大な意見の衝突があったことにふれることができるでありましょう。ソヴィエト連邦は、四大国のみが、即ち米国、連合王国、中国及びソヴィエト連邦の外相会議のみがその責任に負うべきであり、さらにもし他の諸国が条約草案の作成のために認められるならば、拒否権を四大国に留保すべきであるということを主張したのであります。
 連合王国はその自治領にも協議すべきでありと主張し、アメリカ合衆国はこれに同意したのであります。この両国は対日戦争に参加したすべての国々に協議することを支持したのであります。
 これらの諸国の間においても、この条約の実際の条件について、あるものは新たな軍国主義的日本のぼっ興によって、また、あるものは日本の侵略のもたらした損害と恐怖を忘れることができないことによってひきおこされた種々の考慮から生れた意見の相違があったのであります。
 完全に独立した日本の構想が始めて提議され且つ考慮されましたのは一九五〇年一月に開催されましたコロンボ全英連邦外相会議であることを私は、敢てここに申上げるものであります。コロンボ会議は日本を孤立した事例としてではなく、世界の富と人口の大きな部分を含み且つ最近になって始めてその自由を回復した諸国ーその国民はかえりみられなかった、幾世紀もの結果として依然として苦しんでいたのでありますーこのような諸国から成っている南及び東南アジアとして知られている地域の一部として考慮したのであります。二つの理念がこの会議から現れました。その一つは独立日本のそれであり、その二つは南及び東南アジアの国民の経済的及び社会的発展の必要のそれであります。この後者を確保するためにコロンボ・プランとして知られているものが着手されたのであります。
 ケネス・ヤンガー氏はこの会議のあとで全英連邦高等弁務官運営委員会がどのようにして条約草案について作業したか、そしてそのあとでアメリカ代表ダレス氏と協議したかを説明されました。
 いまわれわれの前にある条約はこのような協議と交渉の結果であります。この条約は私の政府の持っていた見解のあるもの及び私の政府の持っていなかった見解のあるものを代表しているのであります。私は只今この条約が、日本との平和を喜んで討議する国々の間で到達することのできた合意の最大公約数を表しているものであると主張するものであります。
 アジアの諸国、セイロン、インド及びパキスタンの日本に対する態度を活気づけた主要な理念は日本は自由であるべきであるということであります。私は、この条約がこの理念を完全に具現していると主張します。日本の自由の問題とはなれた他の事項、すなわちその自由は本州、北海道、九州及び四国の主要島しょに限定されるべきであるか、またはその自由はその近隣の若干の小島しょにも及ぶべきであるかという事項があります。若しそうでないとしたならばわれわれはこれらの島しょをいかにすべきでありましょうか。一九四三年のカイロ宣言に従って台湾は中国に返還さるべきでしょうか。もしそうであるならばいずれの中国政府に対してでありましょうか。平和条約の会議に中国は招請さるべきでしょうか。若しそうであるならばいずれの政府でありましょうか。日本から賠償を取り立てるべきでありましょうか。もしそうであるならば、いかなる程度の額でありましょうか。日本はそれ自身の防備を組織するまでいかにして自衛すべきでありましょうか。
 日本の自由という主要な問題についてわれわれは、結局において合意することができ、この条約はその合意を具現しております。その他の事項については、鋭い意見の相違がありましたが、この条約は、多数の意見を具現しているものであります。私の政府はこれらの問題のいくつかが違った方法で解決されるならばそれを望んだでありましょう。然しながら、多数のものがわれわれに同意しないという事実は、自由で且つ独立の日本という中心的概念を含んでいるこの条約にわれわれが調印を差控えるべきであるという理由にはなりません。
 われわれは、前に述べました関連ある事項はもし日本が自由であるならば解決は不可能でないこと、及び日本が自由でなければ、解決が不可能であることを感じております。自由な日本は、敢て申上げるならば、国際連合機関を通じて世界の他の自由な諸国家とこれらの問題を討議し且つ早期の満足すべき決定に到達することができます。この条約に調印することによって、われわれは、日本をそうすること、日本が承認しようと決定した中国政府と友好条約を締結することができるような地位におくことができ、更に、申上げることを欣快に思うものでありますが、日本がインドと平和と友好の条約を締結することができるような地位におくことができるのであります。もしわれわれがこの条約に調印しないならば、これらの可能性のうちいずれの一つも起こり得ないのであります。(外務省訳)


 ジャヤワルダナは、一九八九年の昭和天皇崩御の際には国賓として葬儀に参列した。
 一九九六年十一月、ジャヤワルダナは九十一歳の生涯を閉じ、コロンボのケラニヤ寺院で国葬が執り行われた。
 この時、日本からは総理特使のみの参列となった。残念ながらこの日本政府の態度は日本の大恩人に対してあまりにも不誠実だった。
 ジャヤワルダナは終生日本を愛していた。その理由について聞かれた際に、日本は西欧に対してひとり際だった存在だった、そして、仏教国だから、と答えたという。
 彼の遺志に基づき、角膜が提供された。片眼はスリランカ人に、そしてもう片眼は日本人に。
 このケラニヤ寺院は、御釈迦様が当時のマニアキタ王の招きでスリランカを三度目に御訪問されて、説法をされた場所と言われている。


 以上が、ジャヤワルダナ元大統領の生涯をざっと見てきたものです。ここで取り上げたのは、日本に関係するところだけなので、大統領としての活躍などは取り上げていません。
 以上、山口修源氏のお話から知ったジャヤワルダナ元大統領の生涯について、調べたことを掲載しました。

タグ : ジャヤワルダナ サンフランシスコ 対日講和条約 昭和天皇 山口修源

ジャヤワルダナ元大統領の経歴の4:サンフランシスコ対日講和条約会議

 ジャヤワルダナの覚え書きなどによると、サンフランシスコにおける対日講和条約締結までの過程は次の通りだった。
 日本の占領政策に関する連合国の最高決定機関として極東委員会が設置され、米英ソ中の四大国を含む十一ヵ国がこれを構成していた。
 日本を占領していたアメリカは、日本経済維持のために年間五億ドルを費やしており、占領二年も経つと、連合国も分散しており、日本との講和はすぐにも解決しなければならない問題となっていた。
 アメリカはジョン・F・ダレスを特命大使として極東委員会諸国に派遣し、講和解決のための意見を交わし始めるが、これに対しソ連は、講和締結は米英ソ中の四カ国によるものでなければならないと主張していた。
 講和条約会議においてもソ連代表は議事進行を妨害し、条約署名を遅らせようと三十二名もの大代表団を送り込み、一カ月間も滞在する準備を整えていた。
 インドとビルマ、中国は欠席だった。インドは、日本に当然与えられるべき完全な自由がこの条約では与えられないからという理由、ビルマは賠償の取り決めに不服だったためだった。中国については、中華民国と中国共産党のどちらが代表かを決められなかったために招請されなかった。
 インドネシアとフィリピンは出席したものの、戦争の傷跡が深く条約署名すべきか決めかねていた。
 このように、講和条約会議は緊張と不安の中で開会されたのだった。


会議が始まっても、条約は参加国によって署名まで持っていけるのか、修正されるのか、など、予断を許さない状況でした。
その流れを決定づけたのが以前に紹介した、この会議でのジャヤワルダナ元大統領の演説だったと言えるでしょう。
それ故、その演説が日本の自主独立を決定づけたとも言えるのだと思います。
まさに、ジャヤワルダナ元大統領は日本の大恩人でした。
私が生まれる少し前にも、私が知らない日本にとってとても大切な出来事が起きているのでした。それを教えてくれたのが、山口修源氏の話でした。
もっともっと勉強しなければ行けないと思います。
では、次回は、ジャヤワルダナ元大統領の経歴の最後となります。

タグ : ジャヤワルダナ サンフランシスコ 対日講和条約 山口修源

ジャヤワルダナ元大統領の経歴の3

引き続き、ジャヤワルダナ元大統領の経歴を紹介していきます。


 一九三六年四月に、二人は一人息子のラヴィンドラ・ヴィマルを儲けている。
 戦後にラヴィンドラ氏は、ジャヤワルダナの護衛として一緒に東京を訪れたことがある。その際には、昭和天皇からジャヤワルダナを訪ねてこられたそうで、日本側から「天皇陛下がそのようなことをされることはない」と言われたという。
 また、ラヴィンドラ氏自身は、東京オリンピックの際にスリランカチームの射撃選手として来日している。
 ラヴィンドラ氏は父とよく政治の話をし、また、日本の話を聞いたという。
 日本の敗戦直後、昭和天皇がGHQにマッカーサーを訪ね、戦争の責任を全て御自分が引き受けると話したという話も父から聞いたことがあるという。
 ジャヤワルダナ昭和天皇を大変尊敬していたと証言している。

 一九四七年にドン・S・セナナヤケが統一国民党(UNP)を結成。ジャヤワルダナはその結成メンバーの一人である。
 同年、独立を前にした第一回総選挙が行われると統一国民党が第一党となり、ドン・S・セナナヤケは初代首相に就任し、ジャヤワルダナは初代蔵相となった。
 一九四八年二月四日、スリランカ(当時セイロン)はイギリス連邦内の自治領として独立を果たし、百五十年以上にわたるイギリス支配に終止符を打ったのだった。


 一九五一年九月四日から八日まで、アメリカ、イギリスをはじめとし、日本を含む五十二カ国が参加してアメリカ・サンフランシスコにおいて対日講和条約締結のための国際会議が開かれた。日本は全権として吉田茂首相を派遣した。
  蔵相のジャヤワルダナは、この会議にスリランカ代表として出席した。
 会議出席のためにアメリカに向かう途中で、日本に六日間滞在。その間に、吉田茂当時首相や仏教学者の鈴木大拙らと会っている。
 この鈴木大拙との面会は、後に一九七九年に日本に国賓として訪れた際のスピーチの中で話されているが、ジャヤワルダナにとって非常に印象深いものであり、講和条約会議でのジャヤワルダナの姿勢にも影響を与えたと思われる。
 また、原爆が落とされた広島や長崎を訪問したかったようだったが、出来ないままに日本を離れた。


サンフランシスコ対日講和条約会議の話が途中となってしまいました。
次回にまた紹介します。

日本に寄った際の、鈴木大拙との面会の話は、以前に紹介している「宮中スピーチ」の中に出てきます。

ところで、ジャヤワルダナ元大統領が1979年に国賓として日本を訪問した際に、昭和天皇御自らジャヤワルダナ元大統領を訪ねられたのは、正に例外中の例外の話でした。
今年、胡錦濤中国主席のホテルに天皇陛下が御挨拶に伺われたという話がありましたが、あれは、恒例では迎賓館(でしたっけ)で御挨拶の所、工事中だったためだったというだけの話で、ここでのご訪問とはまるで意味の違うものです。

ジャヤワルダナ元大統領の話は、山口修源氏のお話の中で初めて知りました。しかし、スリランカ人はよく知っている話です。恩義を受けている日本人が知らないというのは恥ずかしい話です。(嘗ての私もそうでしたが)そこで、多くの人にこの話を知ってもらいたいです。

タグ : 鈴木大拙 ジャヤワルダナ 昭和天皇 山口修源 サンフランシスコ 対日講和条約

ジャヤワルダナ元大統領の経歴の2

引き続き、ジャヤワルダナ元大統領の経歴を紹介していきます。


 ジャヤワルダナが仏教に改宗した時期は定かではないが、昭和天皇が皇太子時代の一九二一年三月に、訪欧の途中にコロンボを訪問されたのと相前後する時期ではないかと思われる。
 昭和天皇は、巡洋艦『香取』で5日間に渡り当国を御訪問、古都キャンディーにも訪問された。その際に、スリランカ側の首席接伴員として接遇にあたったのが、奇しくもジャヤワルダナのおじにあたる海軍軍人だった。
 ジャヤワルダナは、この時昭和天皇の御召艦を一目見ようと誇りに胸を弾ませて港に赴いた、と後に述べている。その気持ちの中には、日本を同じアジアの民族、そして同じ仏教国として日本を見ていたのではないかと思われる。
 ジャヤワルダナはコロンボ大学に入学すると、英語やラテン語、論理学、経済学を学んだ。しかし、途中から専攻を法学に切り替え、一九三二年に法廷弁護士の資格を得て、父と同じ道である法曹界に進んだ。また、その三年後に夫人と結婚した。
 しかし、学生時代から、弁が立ち、急進的な独立運動の活動家として知られており、やがて高収入が得られていた弁護士の仕事を辞めて、一九三八年に三十二歳で政界に入った。
 ジャヤワルダナの政治的な姿勢は仏教的価値に裏付けされたものだった。翌年に彼は、「理想国家・仏教と政治」と題する短いエッセイを書いている。
 それ故に、当時ジャヤワルダナの世代を非常に魅了していた、宗教を否定し暴力的なマルキシズムとは相容れず、保守主義であったセイロン国民会議のメンバーとなった。
 一九四〇年に地方選挙で当選した後、一九四三年には補欠選挙によって国家評議会議員となった。独立前のスリランカは一定の範囲において自治を認められており、普通選挙で選ばれた国家評議会議員がその自治を行ったのである。


ジャヤワルダナ元大統領の政治家としてのよりどころはやはり仏教のようでした。彼が若かりし頃に多くの若者を魅了したマルキシズムも、仏教に照らしてその正否を考えていたようでした。
それはとても賢明だったと思います。


次回は、ジャヤワルダナ元大統領のサンフランシスコ対日講和条約会議について書いていきたいと思います。
この対日講和条約会議の日本の独立に対する重要さを私に認識させて下さったのは、山口修源氏でした。
一人でも多くの人達にこの話を知ってもらいたいと思います。

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ジャヤワルダナ元大統領の経歴の1

これから少し、ジャヤワルダナ元大統領の経歴をざっと見ていきたいと思います。


 ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナは、日露戦争終結の翌年である一九〇六年九月十七日に十一人兄弟の長男として生まれた。父親のユージーン・ウィルフレッド・ジャヤワルダナは法律家で、セイロンの首席裁判官だった。
 コロンボにあるロイヤル大学で教育を受け、朗読や弁論で賞を取ったり、クリケットチームの一員としてロイヤルートミアンの大きな試合に出場している。
 ロイヤルートミアンというのはロイヤル・コロンボ大学とセント・トーマス大学のクリケットの対校試合で、一八七九年以来ずっと続く、クリケットでは世界第二の歴史を誇る伝統ある試合である。
 さらに、ラグビーチームのキャプテンを務め、サッカーもプレーしていた。
 ジャヤワルダナは、家族や親しい友人からは「ディッキー」と呼ばれていたが、スリランカや世界ではもっぱら「JR」の名で親しまれていた。
 ジャヤワルダナの父はイギリス国教会派のキリスト教徒であり、子供達も皆洗礼を受け、日曜日には教会に行き、日曜学校に通っていた。ジャヤワルダナも学校でキリスト教を学科として学び、聖歌の合唱の授業を受けていた。
 その中で、母のアグネスだけは仏教徒だった。アグネスは家で仏教の様々な宗教的な儀式を行ない、子供たちにもそれに参加するよう勧めるのだった。つまり、子供たちは家に帰ると学校でのキリスト教の影響に対抗するような仏教の影響を受けた。
 やがて、アグネスの弟から当時最も学識深く敬虔な僧を紹介され、深く仏教に傾倒していき、学生時代に仏教に改宗したのだった。
 父もそれには反対せず、やがてジャヤワルダナの兄弟は、一人を除いて全員が仏教徒となった。


ジャヤワルダナ元大統領が、元々はキリスト教徒だったというのは少し驚きでした。
しかし、やがて仏教に改宗するのも意味深いような気がします。そこに、アジア人としての自覚の土台もあったのかもしれません。

このブログは、山口修源氏の影響を受けています。修源氏の言葉に触発されて、勉強をしています。

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ジャヤワルダナ元大統領の宮中スピーチの4

「しかし私も知っているように、それだけが文明化ではありません。私たちが自分の周りにある、人によって建てられた偉大な建造物が一かけらもなく消え去ったとしても、私がちょうど二十八年前にサンフランシスコにおける演説で引用した仏陀の言葉は人々に記憶されていることでしょう。
 他のあらゆる国々と同様に、日本においても壮大な権力がその必然的な終わりを迎えたとしても、あなた方の寺院から広まった理想や、あなた方の僧侶が実践した瞑想と敬虔な言葉は記憶され、そして、来るべき世代の人類の型を作っていくことでしょう。
 陛下の政府が、私の愛してやまない国に招待してくださいました。あなた方は皆、私達に対して思いやり深く親切でした。
 我が政府とスリランカの人々を代表して、陛下に感謝し、あなた方の政府と人々の今後の発展と幸せを心よりお祈りします。

 総理大臣閣下、淑女、紳士の皆様、
天皇皇后両陛下の御健康と、日本の人々の発展と幸福の永続、そして、私達両国の友好のより強い絆を祈って乾杯をお願いいたします。」
ようやくスピーチの最後まで紹介しました。
ジャヤワルダナ大統領は演説の最後まで、仏教国であることを強調していました。
私達は、同じ仏教国であることで日本に対してとても親しみを感じている国があるということをもっと自覚し、感謝していきたいと思います。
 このブログは、山口修源氏の言葉に影響を受けて勉強を続けています。

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ジャヤワルダナ・元スリランカ大統領の宮中スピーチの3

「また、およそ千五百年前に達磨大師が日本にもたらした仏教が、あなた方の文明化に与えた影響というものを理解しました。
 私がサンフランシスコにおいてあなた方のために演説をした際、私は心より語り、私達が互いに信仰する偉大な師の言葉を引用したのです。
「憎しみは憎しみによってやまず、愛によってのみやむ。日本の人々を許し、罰を与えようとすることをやめるべきである」と。
 偉大な吉田元首相は、私の意見を非常に感謝するという手紙を書いて下さいました。彼が存命中に、彼の日本への招待を受けられなかったことだけが残念に思います。
 私が一九六八年に再び訪れた時、あなた方は以前と変わって、物質的にとても繁栄していました。今日では、日本国民は奇蹟の復活を遂げ、国は富み、経済的には世界をリードする国の一つとなりました」(またまた次に続きます。)
 ジャヤワルダナ大統領の講和条約会議での演説の前に、既に会議の結論は決まっており、大統領の演説はそれに影響しなかったという人がいます。
 しかし、この会議の準備段階でも様々な思惑が行き交い、会議の途中でも、ソ連の代表が様々な画策を行っていたことがジャヤワルダナ大統領の覚え書きに書かれています。
 そして、私が個人的に考えるのは、大統領の演説は、一般の人々の非常に高い関心をこの会議に向け、日本に対する寛容さを受け入れさせたのではないかということです。それは、この会議の結果を実現させる大きな力になったのではないかと思っています。

戦後日本の発展を支えたジャヤワルダナ大統領について、私は山口修源氏の話で初めて知りました。

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ジャヤワルダナ・元スリランカ大統領の宮中スピーチの2

以下、前回に続き、スピーチの内容です。
 「一九五一年、私は首相のD・S・セナナヤケ氏に選ばれて、米国のサンフランシスコにおける対日講和条約会議に出席することになりました。私はサンフランシスコへ行くのに、日本を経由し、そこで勝って私が著書を読んだことのある、仏教指導者に会いたいと思いました。
 当時も、あなた方は戦争が引き起こした惨事に苦しんでしました。
 いくつかの都市は完全に破壊されており、東京も半分以上が破壊されていました。その時私がお会いした日本の方達は、皆私が滞在したホテルの外でのみ会うことが許されました。
 私はいくつかの寺を訪ねて、仏教指導者達と会い、仏教について論じました。
 私がよく覚えているのが、当時から禅の世界的権威とされていた鈴木教授とお会いしたことです。私は鈴木教授に日本の方が信仰している大乗仏教と私達が信仰している小乗仏教はどう違うのかを尋ねました。
 すると、教授はこう言いました。『何故あなたは違いを強調しようとするのでしょうか。それよりも、私達はどちらも仏・法・僧を護持することで共通しており、無常・苦・無我を証得するための八聖道を信奉しているではありませんか』
 私は日本の仏教徒とスリランカの仏教徒を結びつける強い絆があることを感じました。」

また続きは次回。
 今日中に終わろうと思いましたが、なかなか訳が進まず、途中となってしまいました。
ジャヤワルダナ元大統領は仏教の強い絆を感じています。これは、スリランカで仏教復興運動を大東亜戦争前に実践していったアガナーリカ・ダルマパーラの日本に対する感情と同じものではないかと思います。
 この人物についても、後で触れていく予定です。
 同じ仏教国という思いはスリランカ人は強いようです。しかし、これに対して日本人には自分の国が仏教国という意識は低いのではないかと思います。また、神道の国、神の国という意識も低いのではないかと思います。
 かくいう自分も、こういう意識を持ったのは山口修源氏の話を聞いてからでした。

タグ : ジャヤワルダナ ダルマパーラ 山口修源 鈴木大拙

ジャヤワルダナ・元スリランカ大統領の宮中スピーチ

ジャヤワルダナ初代大統領が1979年に日本を訪問をした際に、9月11日宮中晩餐会で以下のようなスピーチを行っています。
「天皇陛下、総理大臣閣下、各大臣閣下並びに皆様。
 私はあなた方の国と同じくらいに歴史のある国の代表として参りました。
 スリランカ全島の人々は共通の宗教である仏教を信仰し、共通の言葉であるシンハラ語を話し、独立国として一八一五年までの二千三百年間を過ごしてきました。そこへ、大英帝国の支配者がやってきて、この地の王に取って代わりました。それは、征服ではなく、人々との同意で結ばれた協定によるものでした。
 イギリス国王ジョージ三世および彼の子孫の下、イギリス政府はこの協定を無視してスリランカを植民地として一九四八年まで支配しました。
 私達は紀元前五四四年から、一九七二年に共和国となるまでの間、独立民として、また、属領民、自治領民として断絶のない一系で、歴代の王朝によって統治されてきました。
 外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、慣習などはほとんど消え去りそうになっていました。
 このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下で同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国民達は日本を称賛し尊敬していたのです。先の八十年の間、日本はアジアにおいて独立国として立ち上がっていたのです。
 西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を支配していた時に、あなた達は彼等と競い、匹敵し、時には打ち負かしていました。
 陛下が一九二〇年代に皇太子としてスリランカを訪れた際には、私は気持ちを高ぶらせて陛下が乗船されている船を一目見ようと港に行ったものでした。
 私は戦争や暴力に与するものではありません。しかしながら、一九三九年の戦争によって、イギリスの帝国主義は終わり、私達は自由になるだろうと思いました。私の友人であり、同僚のダドリー・セナナヤケ氏は元スリランカ首相であり、スリランカ独立後の最初の首相の子息でもありますが、一九四〇年代に私は彼と共に日本領事に行き、日本がスリランカの独立を助けるという条件で、日本のスリランカ上陸後に、どのように援助を行うかを話し合ったものでした。」(後半部は次回に掲載します。)
戦前、戦中と、ジャヤワルダナ初代大統領がどれほど日本にあこがれを抱いていたかが分かります。
スピーチの最後にある、日本領事に行ったという話をしていますが、当時まだ若き政治家のジャヤワルダナ氏が日本と手を結ぼうと考えていたことは、政府の要人も懸念をしていたようで、領事に行ったことも尾行をされていたのか、知られていて、後で注意を受けたという話もあります。
当時、スリランカに対してイギリスは独立を約束しており、政治家の多くは戦争ではイギリスに協力をして、その後に約束を果たしてもらおうと考えていたそうです。もちろん、イギリスとしてはスリランカの戦争協力を得るためにそのような約束を果たしたのでしょう。
歴史の経緯を考えれば、戦後、欧米によるアジアの植民地支配という状況が変わらないものだったら、イギリスが約束を保護するのは目に見えていたことでしょう。それは、ジャヤワルダナ大統領のスピーチの中に語られているイギリスの姿からも想像に難くありません。
しかし、ジャヤワルダナ大統領はイギリスとのそのような約束を守るのを潔しとせず、日本と協力してスリランカからイギリスを追い出そうと考えていたようです。
これぐらいの気概がなければ、当時の状況の中で独立は果たせるものではなかったのではないかと思います。独立とは自分の手で勝ち取るものです。

(私は、山口修源氏の話に影響を受け、このような歴史の勉強をしています。)

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ジャヤワルダナ大統領の演説

1951年のサンフランシスコ対日講和会議において、スリランカの故ジャヤワルダナ大統領(当時は蔵相)が日本擁護の演説をしてくれました。その一部が以下の通りです。

「アジアの諸国民が日本は自由でなければならないということに関心を持っているのは何故でありましょうか。それは日本とのわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり日本を保護者として盟友として見上げていた時に、アジア隷従人民に魅力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシアの指導者のあるものがかくすることにより彼等の愛する国々が解放されるかも知れないという希望によって日本人と同調したという前大戦中に起った出来事を思い出すことができるのであります。セイロンにおけるわれわれは幸いにも侵略されませんでした。然しながら空襲や東南アジア軍の指揮下にあるぼう大な軍隊の駐とんおよびわれわれが連合国に対して天然ゴムの唯一の生産者であった時われわれの主要商品の一つであるゴムを枯渇せしめたことによってもたらされた損害はわれわれに対してその賠償を請求する権利を與えるものであります。然しながらわれわれは、賠償を請求するつもりはありません。何故ならばわれわれは、そのメッセージがアジアの無数の人々の生命を高貴ならしめたあの偉大な教師の言葉、すなわち「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」という言葉を信ずるからであります。それは偉大なる教師であり仏教の創始者である仏陀のメッセージであります。この仏教は人道主義の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボディア、シャム、インドネシア及びセイロンを通して、更にまた、北はヒマラヤ山脈を通じてチベット、中国そして最後に日本にまで拡め、幾百年にわたって共通の文化と遺産でわれわれを結合したのであります。この会議に出席するための途中先週日本を訪問した際に私が見出したように、この共通の文化は、未だに存在しているのであります。そして日本の指導者達、すなわち民間人のみならず諸大臣からそしてまた寺院の僧侶から、私は一般の日本人は未だにあの偉大な平和の教師の影の影響を受けており、更にそれに従おうと欲しているという印象を得たのであります。われわれは彼等にその機会を與えなければなりません。
 これこそ、ソヴィエト連邦の代表が日本の自由は制限されるべきであると提議する時に同代表の見解に私が組みすることのできない理由であります。」(外務省による翻訳)

スリランカの人達と(戦争のことを覚えている人達ですが)話をすると、頻繁に出てくるのが、原爆の話とこのジャヤワルダナ大統領の演説の話です。
また、日本国がスリランカとの外交において取り上げるのもこの話です。日本人でこの話を知っている人はあまりいないようですが、是非とも知っておいて欲しい話です。日本人は皆、このジャヤワルダナ大統領とスリランカに恩義があるのです。
という私もこの話を知ったのが山口修源氏の話からでした。

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